abt Unnamed Camp
Unnamed Campについてというか、交流の場についての私見
関連
色々気持ちがわかる
ブレーキになっていることがstaさんと全く同じというわけではないけど、解決しがたい枷がある
掲げられた理念(と言うと大袈裟かもしれないけど)はとても重要だと思う
で、実際に色んな人が挑んで色んなことを学んだと思う
例えばどういう状態なら自分は知的生産をできるのか、という学び
しかし、理念通りに事が進んだかというと微妙っぽい
Scrapboxの個人プロジェクトやTwitterで時折発生する知的生産的会話がひとつのプロジェクトに集まったら(そして更に盛り上がったら)とても素敵なことになるだろうなと思っていた(が、しかし)
難点
意思決定の場が全くない
ルールで制限しないことが自由な思索に於いて重要だから(本当に?)
このままだとやりづらいからこうしたらどうかなと提案しても誰もなんとも言えない
自分にはこの場について何かを決定する権利がないとみんなが思っているからでは?
自分に権利がないと思っているというのはつまり帰属意識を持てないということで、常にお客さんというか新参者というかそういう部外者メンタルになる
ルールが(ほぼ)無いのに、ルールが無いままなんとなく何らかの雰囲気を纏っていることで、「暗黙のルールがあるのでは」と思われた
これは個々人の中の踏み出しにくさをもたらしている「枷」とは別だけど
Unnamed Campとはこうだから…と外から評価された
別に力試しに行く場とかじゃないのに
そもそも練習のための場なのに練習できる感じではない
なぜか?
それぞれが立っているステージが違いすぎる
例えばオーナーで熟達者の倉下さんに対してどういうスタンスでいるのかとか
先生として導いてもらうのか
頑張って(?)対等に語り合うのか
言語化能力に優れた(言語化に慣れている)人、背伸びしている(背伸びできる)人、もっとよちよち歩きからスタートして許されたい人、色々いる
場を作るためのはっきりした心構えを共有しないとそれぞれ安心できないのでは
自己認識の段階を予め明らかにしておいて「この人はこういう自己認識だからここにはこう書き込む」というのが構成員の間で共有されていればよかったかも
「言語化得意なのでガンガン書き込みます(=私はたまたま得意だからそうしているので、私に合わせなくていいです)」
「興味はあるけど全然自信はないです(=一文書き込むだけでも冒険なので反応がもらえると安心できます)」
「深堀りより脱線が得意です(=私はつい脱線しますが、深堀りは深堀りで得意な人が進めてください)」
「細かいことを深堀りするのが得意です(=私はつい細かいことを解き明かそうとしますが、話を膨らませるのはそれが得意な人たちで進めてください)」
みたいな
要は各構成員に対して考慮すべき個性がよくわからなかった
考慮すべきというか、「この人のいつものパターン」みたいな…
多分話題に対してひとつのアウトラインを作ってみんなで書き足していく形式がよくなかった
「この話題のアウトラインとして適切っぽいもの」を選ぼうとした
それがうまくいかないと感じた時に、アイコンを表示してその下に自分のアウトラインを書き込むということが自然と行われてはいた
そうなった時のほうが盛り上がりとしては良い感じだったと思う
あと実際問題として、人の記述を読んで理解するのは大変なので、本人もまとまっていない思考がどかっと書かれると他の人はどうしたらいいかわからないということになりがち
よくわからないとコメントも出来ない
「持ち寄る」というコンセプトに従って、「自分の場所で考えてきたことをコンパクトにまとめて書き込む」という形にした方が読む側の負担は減る
けど、そうしましょうということにすると「まとまるまで書き込んじゃいけない」みたいな意識が生まれる気がしてそれもそれで駄目
まとまらないまま書き込むことでそこに他の人が意見を述べて理解が進むみたいなことがこの場では期待されている(はず)
ただ、結論が全然まとまっていないとしても他の人が意見を挟める形式で書かれている必要は生じる
個々人が乗り越えなければならないことがあり、乗り越える前から書き込める(書き込むことで乗り越えるというのがこのプロジェクトのそもそもの趣旨)というのが逆に辛いかも
そういう形にするとしたら、「いいぞいいぞ!」と盛り上げる雰囲気がないといつまでも不安
書いてみたけどこれで大丈夫なのかな…という不安
「否定されない」ということはそれだけでは「肯定感」には繋がらない
本当は自分でなんとかしなきゃいけないことだけど、自分でなんとかしなきゃいけないよねとなるとあんまり場として存在意義がないかも
みんなが「いいぞいいぞ!」と言えれば良かったけど、よちよち歩き側から見た「先輩」にあたる存在が多分倉下さんしかいなくて、倉下さんが話に乗るかどうかに依存しすぎていたのではないか
他の人に先輩面されても嫌だろうし…
形容するとすれば、Unnamed Campというのは幼稚園なのか小学校なのか中学校なのか高校なのか大学なのかがわからないという感じ
大学だと思っている人が多分結構いる
行われていることは「議論」とか「サロンで行うような高尚な会話」とかいうイメージ
でも理念からすると幼稚園や小学校なのではないかと思う
「○○さんはどうおもったかな? さあかいてみよう!」というイメージ
いやそもそもキャンプなので学校ではない…けど、練習場ということにするなら学校的要素を含んでしまう
最初から「練習ではなく本番」というコンセプトならそれはそれで迷いは生じなかったのかも?
そういうコンセプトだと参加しない人が当然出てくるけど
倉下さんの負担が激烈に増えてしまうけど(なので現実的ではないけど)、もし「倉下学校」みたいなコンセプトだったとしたら何をどうすればいいのかはわかりやすかったかも
Unnamed Campというもの自体が実験的試みだっただろうから、もし機能するものとして継続するなら枠組みを検討して再出発というのもありなのかも
(と、個人的には思うけど、私が何か権利を持っているわけではないので「そう思う」以上のことは言えない)
でも、場はそのままの形であり続けて、難しさを感じながらも各々が挑み続けるうちにうまくできるようになっていったらその方が良さそう
できることなら自由に書き込めるようになりたいという気持ちを継続させる引力はあるなあと思う
よく考えてみるに、即効性とか「最初から軌道に乗れるように」とか考えた場合に限りルールが必要になる感じがする
例えば五年かけて馴染んだとかいうのが普通にあり得ることとするなら自分の足で少しずつ前に進んだ方が良い
すぐ効果が出ないと遠ざかってしまうであろうという前提を置いてしまうとセッティングについて考えなくてはならないが、なんだかんだ挑み続ける可能性の方が高ければ場は何も変わらなくとも各人のレベルアップで急に平気になることもありそう
あとどれほど繊細な側に合わせるのかという問題もある
練習の場、ひらくための場、ということなら、「強い」感じの態度は遠慮してもらう必要が出てくる
そんなのにいちいち考慮しないということなら、それもそれでありだけど、何もわざわざここに来なくてもいいわということになってしまう気がしないでもない
「ひらく練習」と「多少圧をかけられても萎縮しない練習」は同時にはちょっとできない
前者に重きを置いているものだと思っていた
単純な話、圧をかけられたらかけ返すという構図が発生するので、自然な展開として攻撃的になっていくと思う
圧をかけ返さないなら「我慢してやる」になる
どう考えても「とじ」に直行
例えば恐る恐る書いている人の話がちょっと受け入れられないような内容だった場合にどうするのかも微妙
正面から「エッ」って言ったらまずそう
といってスルーするのが正解かというとなんか違う
やんわり意見を表明するのが理想ではあるけども
文字オンリーのコミュニケーションなので結構大変
そもそも受け入れるとか受け入れないとかが発生しうる話題が出てくるのはどうなのかとも思う一方、そういうことが発生しうる話題だということは書かれてみないとわからない面もある
いずれにせよそのへんのことが予め整理されていないと「ひらく」には難しい
めちゃくちゃ空気読んで立ち回ることになってしまう
Twitterのコミュニティなら上手くいくか?
微妙
いずれにしても「書きに行く」となると「つい書きに行っちゃうんだよね!」という雰囲気が作られるまでが大変
高尚な話からしょうもない話まであらゆるステージの言葉がそれなりの数絶えず書き込まれないとなかなか難しそう
意図的に盛り上げるとしたら、難しい話をする人と道化っぽい人とが混在する形を示し合わせて作っておく必要がありそう
サクラと言うとあれだけど、要するにそういう感じの…
ひとりでやってもいいけどひとりでやると「その人の場」になっちゃうおそれも
面白ければ面白いほど「その人の発信を見るために来ている」ということになって他の人が書き込まない
根本的な難題として、コンスタントに話題を出していけないということがある
本当は何気ない一言が大事だったりするので、それも含めていいのに、言った側はそれにそんな重要性を見出していなくてそれを「書きに行く」ことはしにくかったり
何か書こう!と思うとなぜか何も出てこない不思議
そうなると、Scrapboxの個人プロジェクトにしろTwitterにしろ「自分の場」でぽろっと言ったことを他の人が拾ってフォーカスするというのが一番ナチュラルな流れになるのかも
拾ってきて集める場として特定のプロジェクトを作るならある程度うまくいきそう
とはいえ批判するとか「なんか違くない?」とか言うために拾ってくるのはやめたほうがいい
「とじ」直行
「良い刺激を受けた」縛りにするみたいな前提は必要かも
Unnamed CampみたいなScrapboxのプロジェクトにするなら、まず構成員がいて、その人たちのScrapboxやTwitterやブログやpodcastなどでの発信について共同プロジェクトで感想を言うみたいな流れにする(そういう流れを積極的に歓迎する)と楽しいかも?
馴れ合いを嫌うあまり忌憚のない意見を言いたくなる人はいると思うけど、「仲間と見なした間柄(出入り自由)で盛り上がっていこう」という場に敢えて「自分はそう思いませんけどね」的な要素を投入する必要が果たしてあるのかは疑問
でも「感想を言ってもらえる」を期待するのはなんか違うなとは思う
実際面白いと思われたものだけ言及されるのが自然
素直に発信していればどこかしら面白い部分は生まれると思うけど
🤔
前から繰り返し書いている部分もあるが、結論を急ぎ過ぎた感はある
そもそも個人的には「存在さえしていれば気が向いた時にふらっと書きに行くべ」という感じでいる
自分以外の仮想の誰か、を主体として考えていたところがある